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グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス   ~屋須弘平の生涯  其の四 グァテマラでの独立

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス  
 ~屋須弘平の生涯  其の四 グァテマラでの独立

 メキシコ・シティのディアス邸に寄寓しながら専門学校入学志願者に修業必須とされた高等予備学校に通いはじめメキシコ人としての一般教養、さらに絵画を学び出した。そこに医師としての屋須の姿はまったくない。おそらくフランス語やスペイン語を通して、屋須の医師としての実力ということになるだろうが、自分の知見は西洋医学に比べると取るに足りないものと自ら“廃業宣言”をしたのだろう。以後、医師としての屋須の姿は戻ってこない。藤沢で3年、開業医を務めた後、人の脈をとって報酬を得ていない。そればかりか、手記中に自分がかつて医師であったことを暗示する言葉すら記していない。
 メキシコ入りしたばかりの屋須に仕事はなかったから、ディアス邸で は家内労働ぐらいはしただろうが、勉学に勤しんでいたことを思えば、破格の厚遇での徒食となっていただろう。ディアスは屋須を客分として遇していたと思う。
 メキシコ到着早々、屋須はディアスにともなわれてテハダ大統領に謁見している。当日の屋須の正装は、紋付き、袴・・・。1876年、帰国したディアスは金星観測及び日本及び、その往路の見聞記として早くも『メキシコ天体観測隊日本旅行記』を刊行している。しかし、ディアスにそうした余裕もすぐ失う。
francisco_diaz_covarrubias.jpg 屋須はこんなことを記している。
 「当時のメキシコは、政治的に不安定な時期で、ドン・ポルフィリオ将軍の指導によって革命が興った。そして、革命は成功し、将軍が大統領府に入る前日、テハダ大統領は国外に脱出した。新政府はセニョール・ディアスをグァテマラ公使に任命した。」

 前大統領派であったディアス・コバルヴィアは体よく左遷されたのだ。当時の血なまぐさいメキシコにあってディアスが政治犯として収監されもせず財産も没収されず、南の小国へ追放されただけで済んだのは屋須にとっても幸運だった。庇護者の財力は健在のままだったから、まだディアスに頼れる。しかし、生活手段がまったくなかった屋須は、やむなく新公使に附いてグァテマラ入りすることになった。学業も途中で放棄することになった。屋須は書く・・・。

 「(グァテマラの)メキシコ公使館ではなすべきことがなく、私は日本へ帰ることを望みはじめた。だが、ディアス氏から支給される金では帰国のための旅費はできず、不可能だった」

 さすがの屋須もこのときばかりは憔悴にかられたようだ。
 そんな時期、屋須は収入の道をもとめて公使館前で開業する写真館にむかった。

 「私は経営者のエミリオ・エルブルヘルに自分の辛い立場を説明し、写真術を教えてくれるよう嘆願した」

 屋須にとって、それは藁をもつかむような思いだったろう。
 屋須は必死に働いた。働かねばならなかった。
 「私はわずかのうちに焼付けの仕事を覚えた」と書いている。帰国するための旅費づくりに精勤した結果が屋須の技術習得に拍車をかけたはずだ。二年足らずで自己資金を蓄えたと屋須は自賛している。 (つづく) ☆後日、補筆・訂正の予定あり。

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