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グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の五 グァテマラでの独立

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス  
 ~屋須弘平の生涯  其の五 グァテマラでの独立

 1880年、首都グァテマラ・シティに小さな写真館「フォトグラフィア・ハポネス」を開く。ハポネスとはスペイン語で「日本人」の複数形。
 屋須はここで写真技師としての腕を磨き 、時代を先取りする商才も発揮することになる。
 顧客の注文写真にこたえる傍ら、当時のグァテマラ大統領フスト・ルフィーノ・バリオスの肖像写真を撮り、その原版を利用して小型の廉価版を大量に焼き増しすると、兵隊たちに手ごろな値段で捌(さば)いた。グァテマラは歴代、独裁的傾向の強い政治家が政権を担った。軍高官が繰り返し大統領の椅子に座っていた。バリオス大統領も軍人であった。兵士たちは上官への忠誠心を示す行為として写真を購入し、軍服の胸に収めたのだ。
 屋須がそうした廉価版写真を大量に売ることができたという事実は、大統領とそれなりの親交が確立していたことを証明することだろうし、閣僚たちも顧客にしていたことをうかがわせるものだ。つまり政権の後ろ盾があっておおいに繁盛していただろうということだ。
紙幣のバリオス大統領 グァテマラ紙幣に描かれたバリオス大統領

 バリオス大統領はグァテマラ史にあって大胆な改革をつぎつぎに実践した行動の政治家として特筆される。
 たとえば、カトリックが国教であった同国で、教会がもつ土地の没収、学校の非宗教化を断行した。そのことはカトリック諸国の近代史においても先駆的な試みで、先行例としてはメキシコで政治への介入が著しかったイエズス会に対して、国外追放、教会財産の没収などの事例があるが、基本的に珍しい勇断だといっていい。そして、 経済的にはいまにつながるコーヒー栽培の拡大、太平洋とカリブ海をつなぐ鉄道の建設、その工事にともって拓かれる道路網の整備などを行なった。
 同国大統領列伝のなかでは特筆される政治家で現行の紙幣に描かれている。つまり国民的な人気があった。ゆえに屋須も大量焼付け、販売という賭けに出られたのだろう。もしかしたら、紙幣のモデルとなった肖像が屋須の写真であった可能性が高い。米国の初代ワシントン大統領の肖像が、もっとも流布した廉価な肖像写真から採用されたように、グァテマラでも同じようなことが起きたと思う。多少、真像とは違っていても、すでに国民に定着していたイメージを踏襲しようと考えるのが政治家だから。
 また、グァテマラ大司教の肖像写真も大量に頒布・販売して成功している。屋須は聖界と俗界の長(おさ)の肖像で同時に儲けていたのだ。これも屋須の当時の信仰心のありようを示しているだろう。大司教が異教徒にそんな写真の販売を許可するわけはないし、屋須の信仰心が通りいっぺんのものであったとしたら、そもそも大司教が写真館に足を運び、典礼の盛装のまま長時間の撮影に耐えたであろうか。
 大司教は当時のグァテマラに在っては最高の知性の持ち主であっただろう。当然、撮影の合い間に屋須とプライベートの会話も弾んだに違いない。それに、日本人がこの地で写真館を開くことになった経緯にも興味をもっただろう。それはバリオス大統領にしても同じだろう。屋須は当たりさわりなく通り一遍のことは話だろう。特に、大司教の前では営業トークとして、故郷・藤沢に苔むした一群の墓石が隠れキリシタンのものと言い伝えれている伝聞を話たかも知れない。その墓石群のことは筆者が藤沢町庁を取材で訪ねたとき、応対にでた職員から写真とともに示された。屋須も当然、その墓石のことは知っていたはずだ。

 首都グァテマラ・シティはアンティグアが大地震で崩壊した後に建てられた中米諸国の首都のなかでは比較的新しい町であった。スペイン・コロニア様式で区画整備され、中央に広い広場を設け、その一辺に政府庁舎、その両翼に裁判所、中央大聖堂を配した。屋須のお得意様が指呼の間で存在していた。
 当時のバリオス大統領の指導によって外資を積極的に導入し、大規模なインフラへ整備を行なった。その積極的な経済効果はいっていの期間、人口規模の小さなグァテマラに効果的なバブルを生んだと思う。その好景気のなかで屋須の写真館は繁盛したのだ。
 そうした経済活動の繁栄によって国庫も潤い、大統領の求心力も増した。それを好機としてバリオス大統領は、長年の夢、宿願としてきた中米諸国の再統一を主導するための軍事力の拡充、近代化を進めた。
 中米諸国はスペインから独立したとき、植民地時代のグァテマラ総督府の施政下にあったエル・サルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカが中央アメリカ共和国として連邦制をとっていた。その際、主導的な役割を担ったのがグァテマラであった。現在もグァテマラ人のなかに、植民地時代から歴史的にグァテマラは中米の中心である、という自負がある。バリオス大統領にもそれは強く意識されていて、再統一のための布石として隣国エル・サルバドルへ自ら指導して侵攻し、その戦闘で戦死する。
 屋須もまた後年、対エル・サルバドル戦のために後半生を決定づけられることになるが、それは少し先のことだ。
 こうして、バリオス政権下で屋須の仕事は順調に進捗し、やがて蓄えた資金を元手に「15×8メートル二階建てのスタジオ」を建てた。屋須はこのスタジオを自慢げに記している。

 「それは便利な作りで、ペンキ塗りの美しい階段を昇ると修正室、色調室があり、また一階には洗い場、中庭に焼き付け室、また大型印画紙用のおおきな部屋等があった」

 しかし、屋須は数年後、その写真館をすべて売却する、1889年のことだ。離日して14年後、屋須は決然と繁盛する店を閉じた。帰国するためだ。
 一説には、〈当時の屋須は敬虔なクリスチャンであり、故郷の老母にもイエス・キリストの教えを説き改宗させようという願いがあって、それが帰国をうながした主たる動機だ〉とするものがある。
 当時の屋須は写真館から徒歩で行ける一角、現在の旧市街のはずれの緩やかな丘に建つカルメン教会に通っていた。教会は現在もあり、多くの信徒を集めているが、屋須が通っていた当時と比べると、信徒の階層はだいぶ様変わりしたと思う。現在のカルメン教会周辺はたとえば外国人観光客などはあまり足を向けたくない、治安の不安な地域にあるからだ。富裕層はとっくにその周辺から出ている。
 ともかく屋須は写真館の権利一切を処分、渡航費用及び日本で写真館を開くための資金を鞄に詰め太平洋沿岸の港プエルト・サンホセから船に乗り、グァテマラを去った。ただし主要な写真機材は日本でもなかなか揃えることは至難であったろうし、使い慣れた道具として可能な限り梱包して帰国したと思われる。
 日本でいえば明治22年のこと、一私人に過ぎない屋須が、私費を使って、ふたたびグァテマラの地を踏むことになるとは思いもしなかっただろう。
 帰国への準備であわただしい日々を送るなかで、グァテマラの友人・知人らと永遠(とわ)の別れを宴を開いていた屋須がいたことを後年の手記のなかで知る。 (つづく) 後日、補筆・訂正の予定。

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