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熱帯雨林地帯のめくるめく至上の愛 ガルシア=マルケスの大人の寓話

熱帯雨林地帯のめくるめく至上の愛 ガルシア=マルケスの大人の寓話
 ~映画『コレラの時代の愛』の監督と主演者の話をまじえて
コレラの時代の愛

 
 「大人の童話」という言い方がある。
 芳香を放ち、めくるめく奇譚に酔うことは読書の醍醐味である。知的遊戯の世界でもある。ラテンアメリカの豊かな自然を背景にした詩や小説、天空に近い高原、猛禽類が生息する熱帯雨林、紺碧の海に浮かぶ島から、教会の大伽藍やスラムの片隅、先住民共同体のなかかで育まれ送り出される鮮やかな文学の花束のなかに、棘もつ黒い薔薇の物語をいくつも発見できる。
 南米コロンビアのコスタ地方に生まれ育った作家ガルシア=マルケスが描き出す世界は「大人の童話」として読むことが可能だ。
 マイク・ニューウェル監督は、広大な熱帯雨林を貫く川の流れ、その川が生まれる山に託して、マルケスの『コレラの時代の愛』を語る。
 「これは叙事詩的ラブストーリーだ。膨大な時間の中に、雄大で英雄的なマグダレーナ川が流れる。この川では、人びとが上流から下流へと旅をしていく。川は広大な自然のなかに寝そべっているようだ。川はゆったりと海へ流れ込んでいる。巨大な泥の流れを隆起させ、うねりながら。ジャングルはケタ外れだし、山々は、平凡とか普通と称される存在を超越する、人類の魂の壮麗な広がりそのものなんだ」
 映画に横たわっている時間は、51年と9ヵ月と4日、である。
 1879年、独立から間もないコロンビアの港町カルタヘナ。裕福な新興成金の商人の娘フェルミーナ(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)に一目ぼれした若く貧しい電報配達人フロレンティーノ(ハビエル・バルデム)は情熱的な手紙で彼女の心を掴む。しかし、彼女の父は大事な一人娘をしがない配達人風情に与えてたまるかと仲を引き裂く。彼女は遠く離れた親類の家に預けられ、彼女もやがて一時的な狂熱だったと悟り、欧州に留学し地元での信望も高い医師と結婚する。しかし、フロンティーノはいささかも諦めない。いつか彼女をわが胸に抱く日が訪れることを待望して生き抜くのだ。彼女にふさわしい富と名声を少しづつ蓄えながら。それは半世紀の歳月を待ちわびる日々であった。
 しかし、そんな歳月も悠久たる自然のなかでは片々たる歳月に違いないのだ。マルケスの描く〈時〉の感覚は宇宙の流れにある。
 『夜になるまえに』でキューバの監獄から米国へ亡命した実在のホモセクシュアル作家を印象的に演じたハビエルだが、本作では50年の歳月を見事に演じわけた。いや、イタリアのジョヴァンナも少女から70歳に手のとどく老女まで演じて甲乙つけがたい。
 ハビエルが物語を的確に切りとって語る。
 「すべてはマルケスが作り出したもの。愛やコレラという病いが同じ場所から発生しているというアイデア。それは呼吸するための痛みと苦悩、誰かを死ぬほど渇望する心です。その痛みをフロレンティーノは経験しなければならない。それはわれわれすべてに関わるものだと言えるでしょうね。われわれは全員、愛し、愛されているのだからね」
 大人とは不幸な人種であって、恋のはじまりに「純愛」の行く末を予感してしまう、そんな、さもしい生理をもつ。
 大人の童話で「純愛」を求めれば近松の道行となり、今どきの世相でいえば渡辺淳一の描く心中物になってしまう。そんな渡辺の風俗小説が大人の読み物としてベストセラーになるような読書界では、マルケスのような大きな器量は生まれないだろう。
 マルケスの天才は、「純愛」の主人公たちを生き抜かせて成就させてしまうのである。これは大変なことで幾十年もの歳月をひとまたぎさせる架橋を平然と構築して倦むところを知らず、時をくぐり抜けるタイムトラベラーでもある。しかし、フェルミーナとフロレンティーノの間に過ぎ去った半世紀の日々はやはり苦い。
 白髪の老人となったフロレンティーノの求愛を受け入れた老女フェルミーナは叫ぶ、「何てこと! 私はわからなかった。夫との40年間の結婚生活が、果たして愛だったのかどうか」と。マイク監督は、このシーンを象徴化させるために半世紀を描いたのだ。
 「大抵の人は、フロレンティーノ役のハビエルが主役だと思うだろう。でも、女性がいなければ何も起こらないんだよ。女性という化学物質によって、男は化学反応を起こすんだ」と監督は語る。
 けれど、フェルミーナもフロレンティーノという存在があって、はじめて空しかった夫との生活に気づくという意味において、女が敏感に化学反応を起こしたともいえる。しかし、マルケスもマイク監督もマッチョである。かぎりない女性賛歌として綴り、演出したのだった。
 大人は贅沢である。物語を気に入れば描かれた土地に赴きたくなり、主人公が痛飲するウィスキーを飲みたくなり、禁断の実を愛でたいと思う。所詮、適わぬ現実とは知りながら、どこかで手が届きそうに思い、虚しく渇望したりする。
 本作で描かれる土地はコロンビアのカルタヘナ周辺。音楽でいえば濃厚なアコーディオンの曲弾きに満ちたバジェナードの世界だ。官能的なメルヘンを描くには、熱帯の旺盛な生殖が満ちる自然は絶好の表現適地である。
 独立直後の混沌とした港町に徘徊する言語はクレオール化している。コロンビアのアコーディオンはドイツ船員の置き土産だとの巷説がある。台詞は英語なのだが湿潤な大気のなかでスペイン語の抑揚に転移しているような錯覚を覚える。コロニア様式の家並み、雨季のぬかるみ、熱帯性植物の旺盛な繁茂、野卑な新興成金とスノッブな富裕階級、寄生虫のインテリたち……とマルケスお馴染の人材配置も申し分ない。
 フロレンティーノは半世紀の愛に賭けながら、622人の女性と平然と情事をくりかえしたクセモノであって、西鶴の世之助よりも世知に長けている。フェルミーナの夫の訃報も女子大生とハンモックで同衾中に知るのだ。こうしたマッチョな活力に満ちた魅力的なクセモノが縦横に活躍するのもマルケス世界なのだが、彼を演じたハビエルも役に溶け込んだように語った。
 曰く、「本物の愛は永遠である。本当の愛に気づくためには、時に時間がかかる、というメッセージを投げかけると思いますね」と。
 畢竟〈愛〉とは、やるせない現実生活における泉なのだ。だから、乾いた喉を潤すため、オアシスを求めるように〈愛〉の道化を演じてしまう。〈愛〉で道化となることを人間の歴史はゆるしてきた。そこから多くの文学が生まれた。ガルシア=マルケスの文学を魔術的リアリズムといった言葉で形容することがあるが、予定調和に堕ちない彼の文学は、しかし、大人の童話の正統なのである。そんなことをあらためて確認した秀作であった。

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