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歌の力……「ラス・カサス・デ・カルトン」

歌の力……「ラス・カサス・デ・カルトン」
    映画『イノセント・ボイス』
  エルサルバドル内戦に生きた少年の実話

 イノセント・ボイス


 ダンボールの屋根を打つ雨の音は
  なんという悲しい響き
 ダンボールの家に住む人たちの
  なんという悲哀に満ちた
 ずっしりと圧し掛かる苦しみに
  足を引きずる人たち
……「ラス・カサス・デ・カルトン」
 
 70年代後半から90年代前半にかけて中米の内戦時代、そこで暮らすことを強いられた民衆にとって冒頭の歌「ラス・カサス・デ・カルトン」(引用は一部のみ)は忘れがたいものだ。あるときは、権力に対する抵抗歌、不正に対する正義の声でもあり、また声にできない日常生活の憂さを代弁してくれる歌であった。歌それ自身の強い力が磁力となって民衆の糧となっていた。政府が禁じようと、軍が銃で規制しようと、密かにしかし着実に民衆の生活のなかに溶け込んでいった。
 80年代前半、11歳から12歳の多感な少年時代をエルサルバドル内戦下で過ごしたオスカー・トレスは言った。
 「少年だった私にとって『ラス・カサス・デ・カルトン』は生きる力そのものだった。多くのエルサルバドル人がこの歌で救われていた」
 エルサルバドル内戦がもっとも激しかった80年代前半、軍事独裁政権下で「ラス・カサス・デ・カルトン」は禁じられた。しかし、反政府武装組織ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)は解放区に設けたラジオ局「ラジオ・ベンセレモス」から、その歌を流しつづけた。その放送を市民が聴くことを政府は当然、禁じた。しかし、市民は密かに聴いていた。しかし、ゲリラ放送が告げる戦況をそのまま信じたわけではない。といって正常なマスコミ活動を抑圧した政府が公認するラジオ局の戦況も信じていない。民衆は、政府発表とゲリラ側の情報を比較しながら自分自身で内戦の状況を把握しようと努めていた。生き延びる知恵だった。
 同じ頃、エルサルバドルの隣国グァテマラも内戦下にあり「ラス・カサス・デ・カルトン」は同じように禁じられていた。しかし、歌は口伝えで流布した。
筆者がグァテマラで生活をはじめた90年代前半、「あの歌をつくった歌手は軍によって暗殺された」、あるいはチリのヌエバ・カンシオン系の歌手ビクトル・ハラがピノチェト将軍のクーデターでギターをもつ手を打ち砕かれた後、拷問で殺されたという話に重ねて、「拷問死した」とまことしやかに噂されていたものだ。
 「私もその歌をつくった音楽家は殺されたと信じていた。ところが2001年、ロス・アンジェルスで公演をするというニュースがあって驚いた。生きているんだ、と。そして、コンサートに行き、その歌を聴いた時、少年時代の自分が蘇生してきたのです。それから、この映画の脚本を書きはじめたのです」 
 この映画とは、70年代前半、首都サンサルバドルに近い町クスカタンシンゴで暮らす11歳のチャバ少年とその家族、子ども仲間が内戦のなかでどう生き、死んでいったか、あるいは殺されていったか、を描いた実話である。チャバ少年に、トレスさんは自身の少年時代を投影した。
 「あの時代、ともかく嫌だった。勉強は戦闘で中断される、遊ぶ時間も戒厳令で減るばかり、友だちは次々と徴兵されるし、殺されてしまったり行方不明になったりしていた。学校そのものも無期限閉鎖にもなったしね。家族から自分を引き離しのも内戦だった」
 トレス少年が12歳になったとき政府軍の徴兵を免れるため、偽名の書類をつくって米国に亡命する。米国には数年前に亡命した父親がいた。そんな過酷な少年時代を強いられたトレスさんだが、筆者の目の前にいるのは話好きのラテンアメリカなら何処にでもいそうな好青年であった。まだ、33歳である。とても生死の境を潜り抜けてきた体験の持ち主とは思えない。現在は米国籍を収得しロス・アンジェルスに暮らす、いわゆるヒスパニック系市民である。米国には幼少期を過酷な状況下で暮らしたヒスパニック系市民が多くいることをあらためて実感させられた。
 筆者自身、90年6月、エルサルバドルを乗合いバスを乗り継いで旅をつづけ、隣国ホンジュラスに出る前の晩、サン・ミゲルという町で市街戦に遭遇したことがある。首都から飛来した武装ヘリコプターが打ち出す機関砲の薬きょうが泊まった安ホテルの屋根を打ちつづけていた。戦闘が少なくなったといわれた90年でも同国はそんな状況だった。昼間、乗合いバスで移動していると軍のトラックが兵士を満載して頻繁に移動していた。その兵士たちの多くはあどけなさを残す少年たちだった。トレス少年もそこに加わるはずだった。
 「私が祖国に戻ったのは22年後」、映画のプロモーションのため商用として訪れたのだった。「その時、祖国を離れているあいだに感じていたものとまったく違う苦しみを味わった。生まれ育った町を訪ね、かつて親しかった人たちと再会した。昔の記憶が必然的によみがえってきた。そして、一種の疎外感も味わっていた。もう自分が祖国に対して関われることは何もないのだ、という空虚感、それはとても苦しいことだった。けれど、映画によって救われました。公開後、エルサルバドルから米国の私の家にたくさんの手紙が届いた。みな、よく私たちの体験を語ってくれた。映画を観て、私も内戦下の暮らしを語っておく必要を感じた、と。映画によって、祖国エルサルバドルの民衆は内戦の体験の語り部になる必要を自覚しはじめたと思う」
 エルサルバドルでは2004年クリスマス・シーズンに公開された。そして、同時期に公開されたハリウッド映画を俄然、引き離し同国の興行記録を塗り替えた。
 「政府は映画を批判した。というより、国内での撮影すら許可しなかった」
 現在の同国政府は親米派の大統領が舵取りをし、中米諸国と米国間で自由貿易協定の実現に向けた旗振り役を任じ、現在、イラクに兵士を派遣する唯一のラテンアメリカ国となっている。
 
 トレスさんのシナリオをメキシコのルイス・マンドーキ監督が、メキシコの少年少女たちを巧みに演技指導して内戦下にいきる子どもたちの現実を描き出した。監督は筆者に言った。
 「たとえばこれだけイラク戦争について報道されながらイラクで現実に銃を握っている少年兵の存在はまったく無視されています。私は戦時下における子どもたちの生活、その現実を伝えたいと思って、この映画を制作した。エルサルバドルが内戦下にあった時期、私は米国の介入に怒りはしたが、そこで生きている子どもたちのことまでは意識できなかった。その反省も込めた」
 マンドーキ監督の子どもたちに寄り添った演出力は素晴らしい。ベルリン国際映画祭は、児童映画部門のグランプリを本作に与えた。しかし、平均的な日本人の”平和”感覚では本作を児童映画とはとても認知できないだろう。それほど過酷な現実を扱っている。しかし、世界の現実は過酷なものだ。親兄弟を奪われ、口に入れる食べ物も喉の渇きを潤す水も乏しい子どもたち、笑顔を失った子どもたちが無数に存在する。銃を握って戦う少年や少女も30万人以上、存在するといわれるのが世界の現実だ。
 ラテンアメリカでいえば現在、唯一の内戦国になっているコロンビアの反政府武装組織に多くの少年兵が存在することは公然たる事実。イラクをはじめとするイスラム地域、サハラ以南のブラック・アフリカの紛争地、あるいは旧ソ連圏で独立や自治権拡大を求める戦いの地でも多くの少年たちがたった一つの生命を賭けて戦っている。
 内戦の地は政府軍と反政府軍が兵士を奪い合う。少年に選択の権利はないに等しい。
 映画『イノセント・ボイス』でも学校に乗り込んできた政府軍が、12歳を迎えた少年たちを無理やりトラックに押し込み兵舎に連行するシーンが登場する。隣国グァテマラでは地方の先住民共同体が頻繁に政府軍の強制徴兵を受けていた。そして、政府軍の徴兵を拒むなら、反政府軍に加わるか亡命するしかない現実を強いられていた。
 しかし、ここで断わっておかねばならないのは、強制徴兵も富裕層の少年に対してはまず行なわれなかった、という事実だ。これは紛争の途上国の現実として明記しておく必要がある。「ラス・カサス・デ・カルトン」はそうした貧困層の耐えがたい現実を切々と歌って共感を呼んだのだ。
 2001年10月、ロス・グアラグアオはロス・アンジェルスでコンサートを行なった。「ラス・カサス・デ・カルトン」はベネズエラのフォーク系グループが作詞・作曲した歌だった。トレスさんは、そのコンサートに接した。ベネズエラ先住民の言葉で「鷹」を意味する男性4人組ロス・グアラグアオの面々が、自分たちの旧作が中米諸国で“生きるための力”となっていたことを知るのは内戦後のことだ。「ラス・カサス・デ・カルトン」そのものは1973年に発表されていた。 そこで歌われいるスラムの現実はカラカス郊外の光景なのだが、それはすべてのラテンアメリカの現実を反映していた。だから、エルサルバドルでは首都サンサルバドルのスラム街を歌っていると思われ、グァテマラでも同じように錯覚された。メキシコではグルぺーラのロス・ブーキーズのマルコ・アントニオ・ソリスが歌って、メキシコ市周辺のスラムを模したビデオクリップまで制作した。
 すでに30年以上、活動をつづけ15のアルバムを制作しているロス・グアラグアオだが本国ベネズエラより中米諸国、そして米国のヒスパニック社会で敬愛されている。数多くの名曲を世界各国に送りつづけたラテンアメリカの音楽界だが、かくも直裁に”生きる力“となった歌ということでは、「ラス・カサス・デ・カルトン」は筆頭ではないかと思う。
 映画『イノセント・ボイス』によって日本でもはじめて「ラス・カサス・デ・カルトン」が広く聴かれることになった。
 

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