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書評   『美の魔力 ~レー二・リーフェンシュタールの真実』  瀬川裕司 著

巷間、流布している説を援用すればレーニ・リーフェンシュタールという類い稀な才能、それは知力だけでなく美貌、身体能力まで含むものだが、〈史上最高のヒトラー崇拝映画の制作者〉に収斂してしまうのだろう。この世に、ユダヤ人社会が存在し、彼らの財力がホワイトハウスの外交政策を左右させるほどのロビー活動を賄える資力をもつかぎり、レーニは〈悪女〉でありつづける運命にあるのだろう。
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しかし、なんと魅力的な〈悪女〉であることか! それが著者・瀬川をして断簡零墨の類いまで掻き集めた、これまた類い稀なエネルギーの源泉であることは疑いようがない。僕からみればレーニも凄いが、瀬川の執念もまたあっぱれだ。これは恋愛の狂熱に似たようなエネルギーだと思うが、論じるという醒めた行為のなかで制御されているため、そう見えないだけの話だと思う。

 さて、評者にとってレーニという〈悪女〉はアフリカ・スーダンに取材したヌバ族たちのフィエスタ、あるいは性愛、肢体のあまりにも見事、華麗な跋扈といった石岡瑛子さんが会場レイアウトを祝祭空間としてみせた池袋のアートギャラリーでの横熱のなかに立ちあらわれた。レーニの〈ヒトラー崇拝映画〉はその後にみた。たぶん、僕と同世代の者はそうした映画より前に、ヌバ族のドキュメントと出会ってレーニに惹かれた者は数多いと思う。
 だから、本書の冒頭における〈映画『オリンピア』の謎〉における精緻極まる精査を透過したうえでのレーニ固有の映像処理、手法ないしは独創を解剖する試みは圧倒的ではあるけど、僕にはうざったい。こんな調子で全篇貫かれているのなら到底、A5判300ページを超える本書を読み通すことなどできないと思った。レーニが主演し、やがて自らも撮ることになる「山岳映画」の検証もまたまたうざったい。しかし、行間から著者の意図は明確に見えてくる。なるほど、この隘路を通過しなければ、〈ヒトラー崇拝映画〉の核心にいけないのだな、と少々、マゾスティックな快感を覚えながら先に進むと俄然、面白くなる。
 レーニ自ら「山岳映画」を撮ったとき、彼女はすでに3つの仕事で実績をつくっている。彼女を「5つの人生を生きた女」というが、30歳にして3つの分野でそれなりの仕事をこなしてしまった。現代舞踏のダンサー(振付け)、映画女優、そして映画監督である。しかし、ここから恋愛でもし順当に結婚し、家庭人となってしまえば今日、誰もレーニのことなど思い出すものはいないだろう。
 レーニの最大の転機は、ナチ党大会の記録映画、いわゆる〈ニュルンベルク三部作〉を制作したことで、20世紀史上の〈悪女〉となる。なかでも、『意思の勝利』はナチ讃歌としてレーニの名に決定的な負の刻印を捺した。波濤の人生のはじまりだ。
 著者・瀬川は、『意思の勝利』を語る章においても、まず〈非政治的〉な解析から入ってゆく。それは、レーニを映像作家として第一義に位置づけ、政治的な立場は二義的なものだという暗黙の評価があるからだろう。こうした手法は、レーニ糾弾のスーザン・ソンタグなどには赦されない行為と映るだろう。瀬川自身も、この映画がナチ当局と「綿密な打ち合わせを経て実現」したシーンが多いことを認めている。さて、そこが問題だ。反ナチ側からみれば、そのレーニがナチ当局と親密に打ち合わせを行なっている事実をもって背徳的行為と映るのだろうし、擁護者は〈良心的な〉映画制作者なら誰だって良い映像を得るためにできるだけの努力を惜しまないだろう、その際の折衝相手が〈たまたま〉ナチであったということになる。しかし、問題はナチ党大会のドキュメントであり、いまや上げ潮、ゲルマン民族の夢と希望を体現したような政党の勢いにさらに弾みをつけたという実効力としての映画を制作してしまった。そのレーニの映像による献身が問わる。それは、やがて、これまた〈史上最高〉のオリンピック映画となる『オリンピア』になだれ込む。
 いま、世界各地でチベット民衆を武力で鎮圧し、人権侵害をつづける中国政府への抗議行動の集約として「聖火リレー」を活用している。ギリシャのオリンピアの遺構で点火されて、トーチに転火されてはじまる「聖火リレー」の創案はナチ五輪ベルリン大会のときからだ。もともと〈政治的〉なものだ。中国当局がその〈政治性〉を活用するなら、チベット独立派ないし支援者がリレーに対して政治行動を仕掛けるのは必然であり、筆者は擁護する。
 映画『オリンピア』が作られた非記録的な映像の多用、非記録的な時系列、作為と創作に満ちた非ドキュメンタルな記録映画であったことは、これまでも多くの論者によって語られてきた。瀬川はさらに撮影時のカメラの位置まで現地に取材し、そのデータをもとに、執刀医の鋭利なメス捌きでさらに手際よく腑分けしてみせている。

 本書は、基本的にレーニ映画論である。映画女優と映画監督のレーニに重点が置かれている。映画を語ることで彼女の思想的な限界から生き方、越し方まで語る。
 芸術家はイノセント(無罪)なのだ基本的に、という戦後の生き方への擁護論になっているし、それで間違いないのだと思う。レーニがナチ党大会やナチ五輪を撮り、類い稀な美的ドキュメントを創造してしまったことは、絶対的なナチズム肯定につながらない。創造作家として、その都度、最高の仕事をしようと思い考え、傾注した成果が〈素晴らしかった〉から問題となってしまった。美神は黄泉の国からも蘇生するのだ。
 レーニが群像処理の映像美を最高度に完成してしまった後、その手法はソ連邦、そして社会主義圏で無検証のまま実際的な効果として功利的に援用されてゆく。北朝鮮のマスゲーム、それを撮ったニュース映像にレーニの面影はいたるところにある。それをいちいち批判する者はいない。
 レーニの強い個性が災いした。しかし、彼女は自分を変えられない。自分はナチに献身したのではなく、あくまでも芸術に帰依しただけだという思いは本心だろうし、それにいささかの濁りもない。非や過ちに対して頭を下げて批判の嵐をやり過ごすことはできよう。それは安逸な道であるが、レーニという人間はそれができない。おそらく、発想すらないだろう。その一方、自分に反対する者の巨大さを知り、故に〈怒り〉の質も理解できる。しかし、自分はその巨大さに抗しきれる意思の力はあるという確信は神々しくもある。
 レーニの分厚な自伝『回想』の扉に、ナチに迫害され米国に逃れたユダヤ人科学者アインシュタインの言葉が〈暗示〉的に掲示されている。
 「私についてはすでに悪質な中傷やありもしない流言がうんざりするほど言われてきたが、これをいちいち気に病もうものなら、とっくに息の根が止まっていたところだ。まぁ、そんなつまらないことは時のふるいにかけられ、忘却の海に流れ去ることを思って、自分を慰めるとしよう」(椛島則子・訳/文春文庫)
 ……と。アインシュタインの言葉を掲げたレーニの心情もまた、ある種の挑戦のようにも思える。しかし、アインシュタインのようには、「自分を慰める」ようなレーニではなかった。この〈悪女〉にはおよそ晩年という言葉は似つかわしくない。〈悪女〉に老後は存在しない。日当たりのよい縁側で茶飲み話に老けるなど退廃だろう。故に、史上最高の〈女〉なのかも知れない。健全な男なら正直、誰だって彼女に興味をもたないわけにはいかない。映画監督という職能性も彼女の人生のなかでは、重要だが、ある時期の〈女〉の属性でしかなかったように思える。本書を通読して、その観をさらに強くした。
(パンドラ|上野清士のBookTalk  2008.05.02)

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