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映画『ザ・コンサルタント』ベン・アフレック主演

 2 コンサルタント
ふだん、ここで紹介する映画の見出しの横には、ほぼ監督の名を表記しているが、本作では主演の会計士を演じたベン・アフレックの名を上げた。筆者がハリウッドのなかで注目している映画人だからだ。
 マスコミ用試写での上映作品は自分の空いた時間と試写室の場所によって制約されているから、新年早々、こんなの観たくなかったという作品に当たる年も多い。アート系映画ではなく、ドラマの部分もしっかりとしたアクション映画であったから128分、実に軽快にほぼ脳内を空洞化させて過ごさせてもらった。そして、見終えた後、最初の感想は主役をベン・アフレックでいけるならシリーズ化できるな、と思った次第。
 ベン・アフレック、私にとっては2012年、イスラム革命渦中、在テヘラン米国大使館がテヘラン市民に占拠されるなか、かろうじてカナダ大使館に逃げ込んだ6人の大使館職員を周到な計画で国外脱出させた米CIAエージェントの活動の実話を描いたドラマ『アルゴ』(2012)の監督してしられる才人だ。監督、俳優、脚本、プロデュサーとしていずれの仕事でも一流の仕上げで大向こうをうらなしている。クリント・イーストウッドの正当な後継者だろう。『アルゴ』はアカデミーの作品賞を受賞したから観ている方も多いだろう。フェイクで映画を撮るとしてテヘラン入りしたCIAのスタテックな活動ぶりと思い切りの良さを芝居がからずに描いていた。
 『ザ・コンサルタント』の公開前に、アフレックの監督旧作『アルゴ』をレンタルビデオで見てもらいたいとも思いもあって、書いている。
 
 ・・・ここからしばし余談を書く・・・割愛して次の段落に進んでもらっても良い・・・大使館や領事館、そこは治外法権のエリアとしてウィーン条約で不可侵の領域として保障されている・・・はずだが、武力を伴った政変によって時として、いやしばしば侵されてきた。ホメイン師を指導者とするイランの宗教革命でも米国大使館は侵犯され、カナダ大使館も被害にあっている。カンボジアのクメールルージュのプノンペン占拠でも起きたし、中米グァテマラでもスペイン大使館が政府軍の砲撃で全焼するという事件も起きている。アフリカでも起きている。そういうことが現実に起こりうる国際社会という現実を確認するためにも『アルゴ』には時代を視る、というリエリティがあるはずだ。最近の映画は、「事実に基づく」というコピーが巻頭に入ることが多い。実話が映画化されるという企画の段階で、脚本はすべて「事実に基づく」になる。現在、韓国のソウルの日本大使館前で、釜山の領事館前でも“侵犯”が実際に起きている。プラカードや立て看といった撤去の容易なものではなく、建造物としての「慰安婦」少女像が鎮座させられているのは、明らかにウィーン条約違反だろう。それは政治的な立場を超え、民主国家として許容してはいけない行動であるはずだ。あの像の表現そのものにも疑義がある。あの愛らしい少女像で「慰安婦」を表現しようとするのは、殊更、対日本印象に憎悪の仕掛けとなっているものだ。こんないたいいけない少女まで「慰安婦」に狩り出した日本軍国主義の残虐性・・・と主張しているのだろう。

 話は横道にそれた。
 世間をあざむく姿は切れる会計士。数字に滅法強く、重税負担に苦悩する正当な顧客にはその立場にたって周到で合法的に減税指南もする。企業の不正な会計監査も驚異的なスピードで暴く天才的な数学力、そして怜悧な判断力(とこの辺りは映画として、とりあえず受け入れる)・・・が地味なスーツに隠した肉体はインドネシアのなんとかという伝統武闘術の奥義を極めたファイター、そして射撃の名手でもあるというスーパーマンなのだ。会計士と冷酷な殺し屋の同居である。
 アクション映画は、世は歌につれ歌は世につれ・・・ではないが、社会状況の変化と科学技術の進歩をそれこそ日進月歩と取り込んで、したたかに観客にカタルシスを与えてくれるわけだ。
 この会計士クリスチャン・ウルフという役名を与えられているが、ふと「パナマ文書」にヒントを得て、国境を股に掛けて、グレードアップした続篇が作られないものかと密かな期待を、厳寒の神谷町の舗道で思った次第。トランプ・タワーならぬ、WB試写室のトランスタワーを出て手袋を装着しながらの感想であった。
 *1月21日より都内公開予定。
 

映画 『シュコラ』 ロシュディ・ゼム監督  ~キューバ出身の黒人ボードビリアンの生涯

映画 『シュコラ』 ロシュディ・ゼム監督
 ~キューバ出身の黒人ボードビリアンの生涯

 ショコラ

 20世紀前半の幾年月、パリの夜を掌中に収めた“褐色のヴィーナス”ジョセフィン・ベーカーの毀誉褒貶に満ちた波乱万丈の物語ならたいていの人はしっている。敗戦直後に日本の孤児の養母となった話も忘れがたい。欧州のショービジネス界で最初に成功したアフロ系女性(出身は米国)であった。だったら、最初のアフロ系男性がいるはずだ、とは何故か思わなかった。そういうことは指摘されてはじめて気づいたりするものだ。「最初の」と冠詞をつけるには斯くも相応しい成功の挿話が幾つもないと献呈されはしないし、伝説化もしない。

 本作は、その男性芸人の存在を評伝的にではなくエンターティーメントのけっこうのなかできちんと教えてくれた。
 ほろ苦くも、湿度の低い、じめじめしたところのない心地よい作劇であった。その男の芸名が「ショコラ」、その皮膚の色からチョコレートと比喩されたのだろう。本名はただ「ラファエル」、苗字はない。1865~68年頃、まだスペイン領であったキューバのハバナで奴隷の子として生まれた、と言われる。年齢も不詳ということになる。ラファエルとはおそらく奴隷主が便宜的につけたものだろう。そのラファエルが欧州に渡ったのもスペイン商人に買われ、バスク地方の農場の家内労働者として送り込まれたからだ。その農場から逃げ出し国境を越えてフランスの零細サーカス団に雇わ れた、というのがその前半生となるが、その出自にも確証があるわけではない。本人がそう語っただけだ。そのあいまいな分だけ、映画は興行的にも受けそうな挿話を適宜、加味することができる。そのショコラをいまやアフロ系フランス男優として声価をゆるぎないものにしつつあるオマール・シーが演じた。
 ジョセフィン・ベーカーもスペイン男性とアフロ系女性とのあいだに生まれたという出自を知るとき、ともに「スペイン」がひとつのキーワードとなっているが、その辺りをラテン風オタク的に語るのは控えた方がいいだろう。
 ベーカーもショコラもステージで自らのアイディンティティを創造し磨き上げ名声を高めた努力の才能であり、そこに国籍も出自も超越した輝きがあった。
 奴隷の子として育ったラファエルには当然、正規の教育の機会などあるはずがなかった。世間そのものが社会教育の場であった。蔑まれ、下積み労働に汗しながら生きるためフランス語を覚えたのだろう。外国語を早く身に付けようと思えば、恋愛か飢餓がもっとも近道だ。
 ラファエル・・・たまたま入った、というより拾われたのだと思うが、サーカス団での役どころはめぐまれた体躯がアフリカの野生とか獰猛といったものを象徴する、として客引きに使われていただけだ。意味のない野卑な〝音”の連なりを発しながら吠え叫び、サーカスの観客のメインである子どもたちをいっとき安全な恐怖というカタルシスを与えればそれで充分という役回りだった。
 そんなラファエルの前に、聴衆に飽きられ、なんとか打開しなければと焦る落ち目の芸人フティットが現われる。この役をチャーリー・チャップリンの孫ジェームス・ティエレが演じる。場末のうらぶれた芸人の悲哀も、かつて絶頂を極めた時代の残り香もそこはことかぐわせ、あたりを睥睨する威厳もその小さな身体で演じ切る演技力は、やはり祖父の血筋かと思ってしまう。

 ラファエルもよるべきなき世界を生き延びてゆくためには、このままではダメだと知っている。先は分からないが、どうせ身ひとつ、係累もない自分には賭けそのものが人生のようなもの、芸人として辛酸を嘗めたフテットについていくのも時の流れだとコンビを組むことになる。そして、シロクロ、デコボココンビは新手のボードビリアンとして逞しくのし上がってゆく。

 音楽家でも俳優でも、あるいは政治家でも企業家でも成り上がりの物語は映画の大きな要素である。そんな現実にはなかなか起こりようもない成功譚、しかし稀に確かに起こりうる話に惹かれるのだ。当たるはずがないと思いながら、ついつい買ってしまう宝くじに夢をみるようなことだろう。
 時に観客の下種な優越感をくすぐりつつ拍手喝さいをうけながらラファエルははからずもアフロ系市民の地位向上に貢献することにもなった。ジョセフィン・ベーカーもそうだった。米国の公民権運動のなかで、たとえばアフロ系の盲目の歌手レイ・チャールズ、あるいは俳優のシドニー・ポワチエが果たしたような位置だ。
 ラファエルを演じたオマール・シーの主演作といえば、『最強のふたり』があり、『サンバ』があった。ともに、現代のフランス社会を揺さぶっているアフリカからの不法移民を演じ、したたかで、教養はないが、まっとうな正義感はもっているという底辺労働者の役を演じきた。その逞しさ後姿に不法越境路の困難、苦行をみせながら演じた好演を思い出す。それは、本作の演技にも深みを与えているように思う。
 *1月中旬公開予定。

キューバ革命の指導者カストロ元議長の死

キューバ革命の指導者カストロ元議長の死と、その後
カストロ
 巨星墜つ。キューバ革命を成功に導き、米国と隣接する小さな島国で反米主義を標榜、第三世界の独立の象徴として輝きつづけたカストロ元国家評議会議長が11月25日死去した。存命中、カストロ本人の意思として禁じられた自身の偶像化だったが、訃報を聞いた市民たちはいっせいに思い思いの方法でためらうことなくカストロ像を掲げはじめた。

 キューバへの渡航を重ねている。首都ハバナ、革命の揺籃の地サンチャゴ・デ・クーバ、革命の勝利を決定付けた戦闘地サンタ・クララ、そしてレンタカーを借りて地方都市、寒村も回っている。
 経済的な苦境でインフラの整備もままならかった島国を効率よく取材するには車を活用するしかない。レンタカーもガソリンも周辺諸国から比べると割高。自家用車を持つことなど一般庶民には高嶺の花。車で走行していると警察にいきなり止められ、どこそこ行くなら、この人たちを乗せよ指示される。いや、信号待ちをしていると、いきなり乗り込んでくる市民すらいる。外国人だから拒否することも可能だし、言葉をわからないふりをすれば、乗り込んできた市民も引きさがざるえないだろう。けれど、走行中、市民の本音を聞けるので乗車を承諾する。それもラテン諸国にあって稀にみる治安の良さがあるからだ。その車内の密室のなかでは生々しい政権批判も聞けたし、なかでも面白かったのは、若者たちのインターネットとの関わりだったが、いまはここでは本旨ではないので書かない。

 国内どこへいってもカストロ像をみることはなかった。その代わり革命の同志エルネスト・チェ・ゲバラであり、独立戦争の英雄ホセ・マルティ像が無数に存在する。チェ・ゲバラを称えることは同時に革命指導者としてカストロを賞賛することだし、ホセ・マルティを崇めることは民族自立の継承をカストロが引き継いでいると国民に明示するものであった。彼らの像の背後にカストロがいつも後背の光となっていたわけだ。

 カストロの名が20世紀後半の世界史に刻まれるのは、革命の成功は無論だが、「キューバ危機」の当事者として米国に深甚な脅威を与え、米軍の武力侵攻の野望を封じたこと、同時に東西冷戦の壁を厚く高くしたことも見逃せない。また、冷戦下、近隣の中南米諸国に蔓延っていた軍事独裁政権に対する民衆の闘争を支援し、当該国の現代史にもその名を刻みつけ、アフリカ諸国の独立戦争にも積極的に関与した。
 アフリカ諸国への武力介入はチェ・ゲバラの時代から、ポルトガルの民主化を実現することになったアンゴラ独立戦争の時代までつづいた。そうした関与は、よくソ連の代理戦争だと批判されてきた。確かにそういう側面もあったが、キューバの民族構成比は現在もアフロ系25%、白人との混血層25%であり、当然、キューバ革命戦争でも彼らは生 命を賭して戦った。革命樹立後、そうしたアフロ系キューバ人が父祖の地の自由を求め積極的に志願していったことを忘れてはならない。そして、ゲバラが斃れたボリビアでのゲリラ戦にアフロ系兵士がひとりしか加わっていなかったのは、ボリビアの人口比が反映されている。ボリビアの山岳地帯に拠点を置いたゲバラ隊にとってアンデス先住民との融和という目的にアフロ系兵士は相応しくなかったからだ。

 カストロ政権下、キューバは米国を超える識字率を達成した。
 民主党支持者として世界的に有名な米国の映画監督マイケル・ムーアは、自作で米国人が羨む医療制度の充実ぶりを紹介したが、それもカストロ政権なくして実現しなかった。もっとも、その内実は例の国内ドライブで同乗者とした市民からは、かなり痛烈な批判も聞かれた。しかし、ラテンアメリカ諸国中、断トツの平均年齢の高さ、乳幼児死亡率の低さはカストロ政権の成果であることはまちがいない。
 筆者が中米に居住した当時、域内諸国で災害があると真っ先にキューバから医療ボランティアが駆けつけきたのを知っている。国交のない国へも躊躇なく送り出していた。
 「スポーツ大国」と言われるが、それも義務教育が充実し、全国的に運動能力の高い児童を早期発見することができたからだ。また、「音楽大国」であることは過去も現在もかわらず重要なこの国の文化要素だ。そして、貴重な輸出産業だ。毎年、多くのキューバ人音楽家が来日公演を行なっているが、その数は、ラテン諸国に限るとブラジルに次ぐ。反面、音楽家、スポーツ選手のそうした海外での活動は、多くの才能を米国に亡 命させる結果ともなった。

 トランプ次期米国大統領は、カストロの訃報を受け、「残忍な独裁者が死んだ」とツイートした。
 政治犯を劣悪な環境の刑務所に収監したり、武力を伴わない反政府活動を弾圧したことも事実。ソ連の後ろ盾を得るためにチェ・ゲバラの反対の声も押し切り、砂糖生産に特化した産業構造も革命前とおなじように継続させた。工業化がすべてとは思わないが、キューバに歪んだ経済構造を遺したことも注意されるべきだ。ソ連が主導したコメコン(経済相互援助会議)の強制であったが、米国が手出しできないように牽制するためにはソ連との協調路線を選択しないわけにはいかなかった。カストロ自身、クレムリン主導のコメコンが、ロシアに富を集中させるゆるやかな搾取のシステムであったことは熟知されていた。キューバのシエンフエゴス郊外に油田が確認されているにも関わらず、自力開発の目途すら立てられず、エネルギーの根っ子をクレムリンに握られていた。国際競争力を持つほどの埋蔵量ではなかったはずだが、それでも地産地消ぐらいはできただろう。

 賞賛もあれば批判もある。政治家が受けるべき当然の責務だ。しかし、その地政学的位置を注視してみるべきだ。
 米国の内海カリブにあったキューバが反米主義を唱え、米国は経済封鎖をつづける。ハバナの目の先にあるフロリダ州、その州都マイアミを中心に多くの亡命キ ューバ人が住む。マイアミ郊外からキューバに向かってキーと呼ばれる無数の島が点在し、突端のキーウエストまでハイウエーが走る。そのキーウエストからマイアミまでの距離より、キーウエストからハバナの方が近いのだ。そのハイウェーを走ったものなら、かくも至近距離にあって反米政権を維持するには尋常な手段ではできない、と誰しもリアリズムで思わずえない。
 カストロは、「歴史が私を裁くだろう」と語った。
 トランプ氏が「残忍」とカストロを指弾するなら、キューバにとって米国は革命前から傀儡政権を操って国富を奪いつづけた超ど級の「残忍」な国家といわなければならない。
 
 オバマ大統領はキューバと国交を再開した。トランプ次期大統領はそれに批判的だ。し かし、トランプ氏とてキューバとの経済交流を促進しないわけにはいかない。何故ならキューバとの貿易を実利的に要望しているのは同氏の支持基盤である南部諸州の企業家たちであるからだ。いま、トランプ氏が声高にカストロ元議長を批判するのも、キューバ政府に対し、オバマほど物分りはよくない、と牽制し「経済」交渉を有利に進めようとする企業家の事前のプレッシャーにも思える。キューバが求めているのは米国からの資本の投資であり、米国観光客の拡大である。お互いに求めているのは政治ではなく経済、実利であるように思う。それは米キューバ間の交流を意外に早く深めることになるかも知れない。カストロ元議長も泉下から容認するはずだ。(11月30日記)

メキシコの女優エルピィデア・カリロのこと

メキシコの女優エルピィデア・カリロのこと

yjimage (2) 年の瀬、掃除も兼ねた不用品の処分をしていると、一群のVHSビデオに出会う。それは主にラテンアメリカを舞台にした米国映画で1980~90年代に制作されたものだ。すでに繰り返し観たので内容は十分、把握している。そして、何故、それらのVHSがかたまりとなって捨て置かれていたかといえば、多少の時差はあれ冷戦末期、ラテンアメリカ諸国が悪辣な軍事独裁政権下にあった時代に材をとって制作された、いわば“抵抗”の映画であったからだ。その中から次の3本の映画を脇に取り置いた。
 南米パラグアイの軍事独裁下の人権犯罪が取り上げられている『愛と名誉のために』(1983年*ジョン・マッケンジー監督*リチャード・ギア主演)。原作は『第三の男』で知 られる英国の作家グレアム・グリーンの「名誉領事」。ギアが後年、中国共産党政権の暗部を指弾する映画に積極的に関わったことに繋がってゆく、その予兆を秘めた作品だ。ともに“独裁”がキーワードだろう。
 中米エル・サルバドルの内戦へ関与する米国の立場を批判的に描いた『サルバドール』(1986年*オリバー・ストーン監督*ジェームズ・ウッズ主演)。ストーン監督の作品のなかでは、私には批判的にしか観られない一作。理由は、作品中に起こる様ざまな事件はそれぞれ紛れもない事実であったが、それらを映画の時間の枠内に時差を無視して取り込んだご都合主義にいささか辟易した。
 経済的に疲弊するメキシコからの不法越境者たちを描いた『ボーダー』(1981年*トニー・リチャードソン監督*ジャック・ニコルソン主演)。米国映画にとって今日、麻薬密売絡みで繰り返し描かれることになる米墨国境地帯は主要な舞台だが、その現実を社会的なアプローチで撮った初期の佳作だ。英国のリチャードソン監督が客観的な視点で誠実に話をまとめていた。
 ・・・の3本だ。
 何故、その3本かといえば、理由はいずれもメキシコ出身の女優エルピィデア・カリロ(Elpidia Carrillo)が主演女優、またはそれに準じる配役を得ていたからだ。
 日本ではアーノルド・シュワルツェネッガー主演で大ヒットし続篇も制作された『プレデター』(1987,1990)に主演女優として出演、広く知られるようになった女優だ。
 1961年生まれのカリロにとって20代の仕事がもっとも際立っていた。 
 『ボーダー』では仕事に倦んでいる国境警備隊の中年ポリス(J・ニコルソン)に青春の覇気をそこはかとなく取り戻させてしまう可憐な未婚の母という、まるで「聖女マリア」のような役柄をこなした20歳のカリロ、23歳の『愛と名誉~』では名誉領事の若き愛人を演じ、26歳では戦火のエルサルバドルでボランティア活動をつづける気丈な女性を演じていた。
 1990年代以降 は助演、またはネームバリューの大きさを観客寄せとして使われるような小さな役での出演がつづき、英国の社会派映画監督ケン・ローチがはじめて米国でメガフォンを撮った『ブレッド&ローチ』(2000年)で、メキシコ系米国人役を演じて以降、日本ではまず忘れられた存在となってしまった。30代を迎えてからリアリズムでいうのだが、カリロの美貌は急激に衰えた。1995年、米国在住ヒスパニック家庭の叙事詩ともいえるドラマ『ミ・ファミリア』(グレゴリー・ナヴァ監督)に出演したとき34歳だったが、それはすでに顕著にカリロはなにか病いに冒されているのでは、と思えるほど痩せていた印象をもったものだ。そして、私も彼女の存在を忘却しかけていた。
 ところが、日本で は公開もされずDVDも発売されていない1998年のメキシコ映画『ラ・オートラ・コンキスタ』でアステカ王モクテスマの妻であり、後年、スペイン征服軍の武将の妻となるイサベル夫人を演じたカリロの姿をメキシコの映画館で観た。それは鮮烈な印象であった。そこでは20代の精気とともにアステカ貴族の威厳、風格すらあった。しかし、それがカリロの“雄姿”の最後であったか・・・。以降、注目されるフィルムは少なくとも私には存在しない。この作品は、かつて『プレデダー』に夢中になった世代にも観て欲しい作品だ。

古書生々流転 其の弐 『オリンピックと日本スポーツ史』 昭和27年6月刊*日本体育協会編集・刊行

古書生々流転
 
実にさまざまな古書が夥しい暦の紙を切り捨てて拙宅に渡来し、そして去ってゆく。射し込む暁光が、しばし紙背に微かな所在の証しとして皺ぶみを刻み込み、掌に暖を摂りた後、しかるべき処に厚遇を見出し敷居を跨いで去ってゆく。今まで、そんなふうにして看過してきた古書とはもはや邂逅することもできない。と思うときょうも遠く送られ、小生の書棚にとっては逸書となるものをささやかに惜別の筆を執りたいと思う。

其の弐 『オリンピックと日本スポーツ史』 昭和27年6月刊*日本体育協会編集・刊行
オリンピック
 日本体育協会編集による“歓喜”溢るる重厚版。昭和27年6月、日本列島、各都市にはいまだ空襲の焼け跡が散在していた時期の刊行物である。
 刊行年を元号で奥付に表記してあるので、それに従ったわけだが、私には西暦で1952年4月、日本が連合国軍の占領統治から解放されサンフランシスコ講和条約が発効した年して記憶される。条約発効から2ヵ月後に本書が刊行されたわけだ。A4判写真ページ120ページ、本ブ文221ページ、総計341ページというなかなかの重厚版だ。頒布価格が、「貮千五百円」となっている。これは大変な高価格。当時の小学校教員の月収が平均5850円だったというから、まず一般庶民には手もだせない一巻だ。というわけで、それだ けの内容、価値ある本にしなければならないという意気込みがあっただろうし、加えて今後、体育協会が活動してゆくうえでの資金調達という役割も担ったものと思われる。
 これだけの書を企画し、刊行を実現するためには半年以上の準備が必要だったはずだ。1951年9月、米国サンフランシスコ市で連合軍諸国とのあいだに平和条約が調印・署名され、発効が翌年4月ときまった段階で日本体育協会は総力を挙げて本書の制作に取り掛かったものと思われる。
 今日の目からみても貴重な資料が多々、掲載されている。
 幻と消えた1940年の東京大会のエンブレムとか大会競技施設の完成図などが掲載されている。筆者が住む埼玉県蕨市には、40年大会のために建設された戸田ボート競 技場建設現場から運ばれてきた残土によって、新しい近郊都市モデル地区が造成され今日でも面影を遺す一角がある。いまは流行の言葉でいえば幻の東京大会のレガシーである。
 資料編のひとつに大正2年、フィリッピン・マニラで第一回大会が開催され、昭和9年まで10回開催された東洋オリンピック、後に極東選手権競技大会と呼ばれた東アジア地域の国際大会の資料が詳しく興味深かった。結局、この大会は、「満州国」の参加の是非を巡って紛糾し、消滅した。21年を一期として消えた大会であった。
 

トランプ次期米国大統領の“金言”とCNN、そして湾岸戦争  映画『ライブ・フロム・バグダッド』 2002年 ミック・ジャクソン監督

トランプ次期米国大統領の“金言”とCNN、そして湾岸戦争
 映画『ライブ・フロム・バグダッド』 2002年 ミック・ジャクソン監督
yjimage (1)日韓共催のFIFA・W杯で湧いた2002年に米国の有料TV局から全世界に配信された映画。サダム・フセイン独裁下のイランで活動したCNNバグダッド特派員チームを描いた作品。タイトルがそれを集約しているわけだが、その活動に相応しく最初からTV用映画として制作された。サブタイトルは「湾岸戦争最前線」。

 日本ではインターネット上でCNNのニュース記事は見、読めるが、TVでは日本語放送がないため一般的な認知度は低い。筆者がグァテマラ・メキシコに滞在していた当時、湾岸戦争における報道競争で一躍、勇名を馳せ、そ の後の飛躍を促し今日の地位を築いたわけだが、そのエポックメーキングな事件を扱っている映画だ。
 CNNは英語とスペイン語局の二局で24時間ニュースを放送しつづけている。その影響力というのは凄い。極端な例でいうのではなく今日的な常識的な光景として書くのだが、CNNスペイン語放送によって、たとえばグァテマラの山奥のマヤ系先住民の家庭が、東京のウォータフロントの高級マンションに住む日本人家庭より世界情勢をより適確に把握している、ということが現実に起きている。日本語という"特殊言語”の壁は大きいわけで、その壁を破る力があるのは、日本ではNHKしかないわけで、これから時代を考えれば娯楽番組は民放に任せて、CNN級の報道機関になれといいたい。ドバイ(カタール)に本局のあるアルジャジーラの予算規模はNHKの何百分の1、それ以下だろう。しかし、その世界的な影響力は世界大でNHKなど足もとに及ばない。そういうことを虚心に考える時代に入っていると思う。
 
 1990年8 月、サダム・フセインのイラク軍がクェート併呑を武力で敢行しようとして開始された湾岸戦争だが、米国主導で結成された有志連合軍によるイラク攻撃で節目が変わる。この一連の報道で世界の主要メディアは凌ぎを削りあう。すでに活字メディアの退潮は著しく、報道のあり方の潮目が替わったのが1989年、冷戦の終結を象徴する「ベルリンの壁崩壊」であったとすれば、それを決定づけたのは湾岸戦争の報道だった。そして、ここで主役を演じたのが新興勢力CNNであった。

 1991年1月17日、CNNバクダッド特派員チームは当夜、予告なく始まった有志連合によるバクダッド空爆を市内のホテルから生中継し、爆風で室内が破壊されるなかで、それこそ身を挺して翌朝まで ライブ中継をつづけた。その映像は既存のTV局もCNNからの配信を受ける形で、(つまり全面的にCNNの軍門に下って)放送をつづけた。本作は、1月17日夜の空爆ライブをクライマックスとして、同特派員チームのリーダーであったロバート・ウィーナーの視点から描かれる。

 いま、何故、こんな旧作を取り上げるかといえば、トランプ時期大統領の“金言”が冒頭部で印象深く語られていたからだ。ウィーナーは志願してバクダッドにCNNの拠点を作るために入国、バグダッド空港に降り立った冒頭部の一シーンでそれは登場する。しかも、イラク政府の職員の口から語られる。それは1987年に刊行され、ミリオンセラーになった『トランプ自伝』にあるもので、曰く「金は王である」。当時、サダム・フセイン独裁下のイ ラクでも『自伝』の読者が相当数いたということになるが、その自伝は昨年6月、トランプが次期大統領候補として共和党から立つための準備を開始した頃、ひとりのジャーナリストが「あの『自伝』はわたしがゴーストライターとして書き下ろしたものだ」と告白した。その人の名をトニー・シュウォルツという。
 映画はウィーナーの原作を彼自身がシナリオ化したものだが、そのウィーナー役をヒット・シリーズ『バッドマン』を演じたマイケル・キートンが演じている。 (2016・12・26記)

古書生々流転 其の壱 * 海軍少佐水野廣徳 『此一戦』 明治44年3月18日初版発行

古書生々流転
 
実にさまざまな古書が夥しい暦の紙を切り捨てて拙宅に渡来し、そして去ってゆく。射し込む暁光が、しばし紙背に微かな所在の証しとして皺ぶみを刻み込み、掌に暖を摂りた後、しかるべき処に厚遇を見出し敷居を跨いで去ってゆく。今まで、そんなふうにして看過してきた古書とはもはや邂逅することもできない。と思うときょうも遠く送られ、小生の書棚にとっては逸書となるものをささやかに惜別の筆を執りたいと思う。

其の壱 * 海軍少佐水野廣徳 『此一戦』 明治44年3月18日初版発行
此の一戦

 いうまでもなく明治晩期の大ベストセラー。明治44年3月18日、書店の店頭に現れると、たちまち売れ切れ以後、再版につぐ再版のあいだに販路を拡大。明治期を代表するベストセラーとなった。昭和に入って後も円本ブームのなか、戦記文学の巻に収録されてあらたな読者を得た。2004年には日露戦争開戦100周年記念出版と銘打たれ明元社という出版社から刊行されもしている。さまざまに版型を替えて本書はいったいどれほどの数が出版されたのだろうか? 日本人の日露戦争観に大きな影響を与えたもは間違いない。その後、軍事思想ということでいえば、降伏を拒否して自決した将校を好意的に描いたため、その後の日本軍の捕虜観形成に影響も与えたといわれる。いわゆる戦陣訓における「生キテ慮囚ノ辱メヲ受ケズ」に実質を与えたようだ。
 小生の手元にしばし寄遇した原本『此一戦』は明治44年(1911)10月、初版から半年を経て63刷本。造本もまだしっかりとしたもので刊行から百年以上も経っているものとは到底、思えない。それ自体ですでに大きな価値を有するものだろう。
 このオリジナル本の活版が磨耗した後、さまざまな形態をもってあらたな読者を獲得していったわけだ。オリジナル本は、ベストセラー本の宿命として明治末代からすでに古書店から古書店から廉価で移動するあいだに自然と失われてゆき、関東大震災、幾多の自然災害、昭和の空襲下といった人災のなかで焼失したりして、こうしてオリジナルのまま形を残すものはきわめて少部数だろう。それを小生は求める人の手に渡そうとする。
 本書には明治出版物としては異例ともいえる多色刷りの地図が挿み込まれているもので、それはもとより海戦の戦況を図解するために加えられたものであり、本文中の図解、別刷り写真などもあり、今日いうところの ビジュアル面も重視した当時として破格とも思える戦記ルポルタージュともなっていて、そのあたりも大ベストセラーとなった要因だろう。また、砲弾で両手首をもぎ取られ、顔面大半を損傷した負傷兵の手札版ほどの写真も掲載されている。こうした写真は以降、体裁を替えた本には収録されない。 オリジナル本の体裁は、地図や写真などの体裁も失われゆく。その意味で、日露戦役後の日本の世相を紙背に染み込ませた初刷り体裁そのものが明治末代の貴重な証言なのである。
 後に連合艦隊司令長官となる山本五十六も巡洋艦「日進」で艦長の伝令兵として登場する。それは苛烈な戦争シーンのなかで現れるのだが、著者・水野の視点は、巨大なテクノロジー、最新技術が炸裂する近代戦、騎士道のロマンなどいささかも入り込まない現実に注がれ、海軍を退いて後、著作活動に入ってゆく水野は一貫して技術力、それをささえる経済力によって戦争は推移するという視点、そして国際的な視野からの政治論に入り込み、そのため時の政府・軍部の見解と異なるようになり、著作が発禁になることもあった。
 昭和5年の著作『海と空』では早くも大艦巨砲主義を時代遅れと言い切り、戦局を左右するのは航空力だと喝破した。こうした先駆的視点をもった人材が軍内に応分の椅子を与えられなかったことに、日本軍思想のなかにやたらと非合理な精神性が闊歩することになったのだろう。精神力、それは重要なことだが、それだけで戦い抜けない科学的合理主義を水野は主張していた。水野は『海と空』のなかで東京大空襲すら予見していたのだった。
 


グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の六 帰国、そして再度の渡航へ

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の六 帰国、そして再度の渡航へ

 一ヶ月半を費やし六月、屋須を乗せた船は横浜港に入港した。
 岩手の故郷・藤沢に帰郷すると老いた母をともない上京、ただちに築地に写真館を開く準備をはじめる。屋須も不惑を越え、前半生の決算をつけようと考えていた。
 しかし、ここにまた運命のいたずらと遭遇することになる屋須であった。人一人の歴史にかくも「海外渡航」、しかも帰路はともかく向かう片道切符は無料、それも明治という時代に一市井の人であった男が関わった。それだけ、屋須にはそうした大事を迎え入れる才覚と幸運があったということだ。屋須の天性ともいえる言語能力の高さ、消化力が大事の受け皿になったわけだが、しかし、幸運とばかりはいえないだろう。晩年の望郷の念の強さは後味の悪さもつきまとう。

 屋須の帰国を待っていたかのように、この頃、南米ペルーのアンデス地方での銀山開発計画というのが具体化していたのだ。日本における最初の海外事業の試みとして明治産業史に載っているもので、当時、世間の耳目をあつめていた。この事業を推進するため日秘鉱業株式会社が設立された。代表は後年、二・二六事件で斃れることになる高橋是清であった。
 ペルーの銀山を日本人が経営し、採掘も日本人鉱夫がおこなうという当時の日本として遠大な計画である。高橋は鉱山技師、鉱夫ら17人をあつめた。そのなかに屋須弘平の名があった。

 「セニョール高橋から呼ばれ、ペ ルーでセニョール・ヘーレンと共同で鉱山を開発する計画を打ち明けられた。」

 高橋は、「外国での事業のことだから、その国の言葉に精通した者がいないと何かと不都合である。是非、同行してもらえないか」とつづけた。

 「私は承諾したが同時に老いた母の同意なしには不可能であるとも告げた。そこでセニョール高橋はある人物を母のもとに送り、説得させた」

 14年ぶりに帰国した屋須であったが、親子水入らずの正月を一度も迎えることなく、その秋にはふたたび船上の人となった。

 翌1890年2月、一行は難行苦行の末、標高5000メートルの高地にあるカウワク銀山にたどりついた。
 「非常に寒い、ことに塵寰(じんかん)を絶した高峰の奥深き所であるから、寂寥言語に絶するものがある。かねて覚悟はして来たものの、私は果たしてこんな所で仕事が出来るかと思った」(『高橋是清自伝』より)
img_0_m.jpg五味篤『銀嶺のアンデス -高橋是清のペルー銀山投資の足跡-』から

 銀山に到着から1ヶ月後、調査のための試掘などによって、すでに掘りつくされた廃鉱であることが判明、責任者の高橋は善後策を迫られ急遽、帰国することになった。そのあいだ屋須は、鉱山技師や鉱夫らとともに山に残った。
 3ヵ月後、東京へ戻った高橋から鉱山開発事業を停止するという連絡が山に届き、下山することになった。それからペルーの海の玄関、カヤオ港から帰国のためパナマに向かう船に乗った。その帰路の途上、屋須は懐かしいグァテマラに寄り道しようと思った。屋須にとってペルー行きという思いがけない長足の旅が与えれたのは、銀山開発こそ不調に終わったが、僥倖(ぎょうこう)といえるものだった。そして、この機会を利用して、三度のグァテマラ入りはありえないと思いグァテマラに立ち寄ろうと思ったのだ。
 パナマ港に着くと、数ヶ月、苦楽をともにした日本人一行から離れ、日本での再会を約束して、屋須は下船し独りグァテマラ行きの通船に乗り換えた。
 グァテマラに到着して友人知人と旧交をあたためている最中、隣国エル・サルバドルとの戦争がはじまった。外国船が入稿する港は軍事優先となり、いざ帰国しようという段になって出国ビザが発給されなかった。そうして無為な日々を過ごしているあいだに手持ち金も少なくなった。

 「それでグァテマラにしばらく留まることに決め、金をつくるためふたたび写真館を開業することにした。」

 「あらたに写真機材をニューヨークに発注した」という内容の手紙を日本の友人に書き送っている。それを読むと、旅費と帰国してからの事業資金を蓄えたらグァテマラを引き上げると考えていたこともわかる。
 写真館には以前の顧客も戻っただろし、腕の確かさはすでに大統領や大司教の肖像写真などの仕事で認知されている。以前の盛名は事業を後押しした。常識的にいって数年で帰路の船賃と、日本での写真館を開く資金も蓄えたはずだ。しかし、屋須はふたたび日本に土を踏むことはなかった。その大きな理由はグァテマラの女性の恋人ができたためだ。
 不可抗力でグァテマラと出会い、ふたたび戦争という個人の力ではどうしようもない波頭に翻弄されて滞在を余儀なくされた屋須であったが、今度ばかりは恋愛という自らの心の揺らぎによってグァテマラの地に根付くことを選び採ったのだ。彼女の名はマリア・アングロ・ノリエガという。
 マリアとの出会いは、屋須が再度、写真館を開業した時期、下宿していた家の娘であった。
 1891年、屋須はマリアと結婚する。本連載の第一回目のカット写真は、その結婚当日、屋須の写真館で撮られたものだ。 (つづく) *後日、補筆・訂正の予定。

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス    ~屋須弘平の生涯  其の五 グァテマラでの独立

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス  
 ~屋須弘平の生涯  其の五 グァテマラでの独立

 1880年、首都グァテマラ・シティに小さな写真館「フォトグラフィア・ハポネス」を開く。ハポネスとはスペイン語で「日本人」の複数形。
 屋須はここで写真技師としての腕を磨き 、時代を先取りする商才も発揮することになる。
 顧客の注文写真にこたえる傍ら、当時のグァテマラ大統領フスト・ルフィーノ・バリオスの肖像写真を撮り、その原版を利用して小型の廉価版を大量に焼き増しすると、兵隊たちに手ごろな値段で捌(さば)いた。グァテマラは歴代、独裁的傾向の強い政治家が政権を担った。軍高官が繰り返し大統領の椅子に座っていた。バリオス大統領も軍人であった。兵士たちは上官への忠誠心を示す行為として写真を購入し、軍服の胸に収めたのだ。
 屋須がそうした廉価版写真を大量に売ることができたという事実は、大統領とそれなりの親交が確立していたことを証明することだろうし、閣僚たちも顧客にしていたことをうかがわせるものだ。つまり政権の後ろ盾があっておおいに繁盛していただろうということだ。
紙幣のバリオス大統領 グァテマラ紙幣に描かれたバリオス大統領

 バリオス大統領はグァテマラ史にあって大胆な改革をつぎつぎに実践した行動の政治家として特筆される。
 たとえば、カトリックが国教であった同国で、教会がもつ土地の没収、学校の非宗教化を断行した。そのことはカトリック諸国の近代史においても先駆的な試みで、先行例としてはメキシコで政治への介入が著しかったイエズス会に対して、国外追放、教会財産の没収などの事例があるが、基本的に珍しい勇断だといっていい。そして、 経済的にはいまにつながるコーヒー栽培の拡大、太平洋とカリブ海をつなぐ鉄道の建設、その工事にともって拓かれる道路網の整備などを行なった。
 同国大統領列伝のなかでは特筆される政治家で現行の紙幣に描かれている。つまり国民的な人気があった。ゆえに屋須も大量焼付け、販売という賭けに出られたのだろう。もしかしたら、紙幣のモデルとなった肖像が屋須の写真であった可能性が高い。米国の初代ワシントン大統領の肖像が、もっとも流布した廉価な肖像写真から採用されたように、グァテマラでも同じようなことが起きたと思う。多少、真像とは違っていても、すでに国民に定着していたイメージを踏襲しようと考えるのが政治家だから。
 また、グァテマラ大司教の肖像写真も大量に頒布・販売して成功している。屋須は聖界と俗界の長(おさ)の肖像で同時に儲けていたのだ。これも屋須の当時の信仰心のありようを示しているだろう。大司教が異教徒にそんな写真の販売を許可するわけはないし、屋須の信仰心が通りいっぺんのものであったとしたら、そもそも大司教が写真館に足を運び、典礼の盛装のまま長時間の撮影に耐えたであろうか。
 大司教は当時のグァテマラに在っては最高の知性の持ち主であっただろう。当然、撮影の合い間に屋須とプライベートの会話も弾んだに違いない。それに、日本人がこの地で写真館を開くことになった経緯にも興味をもっただろう。それはバリオス大統領にしても同じだろう。屋須は当たりさわりなく通り一遍のことは話だろう。特に、大司教の前では営業トークとして、故郷・藤沢に苔むした一群の墓石が隠れキリシタンのものと言い伝えれている伝聞を話たかも知れない。その墓石群のことは筆者が藤沢町庁を取材で訪ねたとき、応対にでた職員から写真とともに示された。屋須も当然、その墓石のことは知っていたはずだ。

 首都グァテマラ・シティはアンティグアが大地震で崩壊した後に建てられた中米諸国の首都のなかでは比較的新しい町であった。スペイン・コロニア様式で区画整備され、中央に広い広場を設け、その一辺に政府庁舎、その両翼に裁判所、中央大聖堂を配した。屋須のお得意様が指呼の間で存在していた。
 当時のバリオス大統領の指導によって外資を積極的に導入し、大規模なインフラへ整備を行なった。その積極的な経済効果はいっていの期間、人口規模の小さなグァテマラに効果的なバブルを生んだと思う。その好景気のなかで屋須の写真館は繁盛したのだ。
 そうした経済活動の繁栄によって国庫も潤い、大統領の求心力も増した。それを好機としてバリオス大統領は、長年の夢、宿願としてきた中米諸国の再統一を主導するための軍事力の拡充、近代化を進めた。
 中米諸国はスペインから独立したとき、植民地時代のグァテマラ総督府の施政下にあったエル・サルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカが中央アメリカ共和国として連邦制をとっていた。その際、主導的な役割を担ったのがグァテマラであった。現在もグァテマラ人のなかに、植民地時代から歴史的にグァテマラは中米の中心である、という自負がある。バリオス大統領にもそれは強く意識されていて、再統一のための布石として隣国エル・サルバドルへ自ら指導して侵攻し、その戦闘で戦死する。
 屋須もまた後年、対エル・サルバドル戦のために後半生を決定づけられることになるが、それは少し先のことだ。
 こうして、バリオス政権下で屋須の仕事は順調に進捗し、やがて蓄えた資金を元手に「15×8メートル二階建てのスタジオ」を建てた。屋須はこのスタジオを自慢げに記している。

 「それは便利な作りで、ペンキ塗りの美しい階段を昇ると修正室、色調室があり、また一階には洗い場、中庭に焼き付け室、また大型印画紙用のおおきな部屋等があった」

 しかし、屋須は数年後、その写真館をすべて売却する、1889年のことだ。離日して14年後、屋須は決然と繁盛する店を閉じた。帰国するためだ。
 一説には、〈当時の屋須は敬虔なクリスチャンであり、故郷の老母にもイエス・キリストの教えを説き改宗させようという願いがあって、それが帰国をうながした主たる動機だ〉とするものがある。
 当時の屋須は写真館から徒歩で行ける一角、現在の旧市街のはずれの緩やかな丘に建つカルメン教会に通っていた。教会は現在もあり、多くの信徒を集めているが、屋須が通っていた当時と比べると、信徒の階層はだいぶ様変わりしたと思う。現在のカルメン教会周辺はたとえば外国人観光客などはあまり足を向けたくない、治安の不安な地域にあるからだ。富裕層はとっくにその周辺から出ている。
 ともかく屋須は写真館の権利一切を処分、渡航費用及び日本で写真館を開くための資金を鞄に詰め太平洋沿岸の港プエルト・サンホセから船に乗り、グァテマラを去った。ただし主要な写真機材は日本でもなかなか揃えることは至難であったろうし、使い慣れた道具として可能な限り梱包して帰国したと思われる。
 日本でいえば明治22年のこと、一私人に過ぎない屋須が、私費を使って、ふたたびグァテマラの地を踏むことになるとは思いもしなかっただろう。
 帰国への準備であわただしい日々を送るなかで、グァテマラの友人・知人らと永遠(とわ)の別れを宴を開いていた屋須がいたことを後年の手記のなかで知る。 (つづく) 後日、補筆・訂正の予定。

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス   ~屋須弘平の生涯  其の四 グァテマラでの独立

グァテマラ日本写真館主人ファン・ホセ・デ・ヤス  
 ~屋須弘平の生涯  其の四 グァテマラでの独立

 メキシコ・シティのディアス邸に寄寓しながら専門学校入学志願者に修業必須とされた高等予備学校に通いはじめメキシコ人としての一般教養、さらに絵画を学び出した。そこに医師としての屋須の姿はまったくない。おそらくフランス語やスペイン語を通して、屋須の医師としての実力ということになるだろうが、自分の知見は西洋医学に比べると取るに足りないものと自ら“廃業宣言”をしたのだろう。以後、医師としての屋須の姿は戻ってこない。藤沢で3年、開業医を務めた後、人の脈をとって報酬を得ていない。そればかりか、手記中に自分がかつて医師であったことを暗示する言葉すら記していない。
 メキシコ入りしたばかりの屋須に仕事はなかったから、ディアス邸で は家内労働ぐらいはしただろうが、勉学に勤しんでいたことを思えば、破格の厚遇での徒食となっていただろう。ディアスは屋須を客分として遇していたと思う。
 メキシコ到着早々、屋須はディアスにともなわれてテハダ大統領に謁見している。当日の屋須の正装は、紋付き、袴・・・。1876年、帰国したディアスは金星観測及び日本及び、その往路の見聞記として早くも『メキシコ天体観測隊日本旅行記』を刊行している。しかし、ディアスにそうした余裕もすぐ失う。
francisco_diaz_covarrubias.jpg 屋須はこんなことを記している。
 「当時のメキシコは、政治的に不安定な時期で、ドン・ポルフィリオ将軍の指導によって革命が興った。そして、革命は成功し、将軍が大統領府に入る前日、テハダ大統領は国外に脱出した。新政府はセニョール・ディアスをグァテマラ公使に任命した。」

 前大統領派であったディアス・コバルヴィアは体よく左遷されたのだ。当時の血なまぐさいメキシコにあってディアスが政治犯として収監されもせず財産も没収されず、南の小国へ追放されただけで済んだのは屋須にとっても幸運だった。庇護者の財力は健在のままだったから、まだディアスに頼れる。しかし、生活手段がまったくなかった屋須は、やむなく新公使に附いてグァテマラ入りすることになった。学業も途中で放棄することになった。屋須は書く・・・。

 「(グァテマラの)メキシコ公使館ではなすべきことがなく、私は日本へ帰ることを望みはじめた。だが、ディアス氏から支給される金では帰国のための旅費はできず、不可能だった」

 さすがの屋須もこのときばかりは憔悴にかられたようだ。
 そんな時期、屋須は収入の道をもとめて公使館前で開業する写真館にむかった。

 「私は経営者のエミリオ・エルブルヘルに自分の辛い立場を説明し、写真術を教えてくれるよう嘆願した」

 屋須にとって、それは藁をもつかむような思いだったろう。
 屋須は必死に働いた。働かねばならなかった。
 「私はわずかのうちに焼付けの仕事を覚えた」と書いている。帰国するための旅費づくりに精勤した結果が屋須の技術習得に拍車をかけたはずだ。二年足らずで自己資金を蓄えたと屋須は自賛している。 (つづく) ☆後日、補筆・訂正の予定あり。
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上野清士

Author:上野清士
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